来年のカレンダーが出来上がった。
しばらく作れなかったけど、やっぱり自分のを作ると楽しい。
クリスマスには間に合わないけれど、
新年には間に合いそうだから、よかった。
使いやすいように、シンプルな線画にした。
ふと見た時に、楽しい気分になってもらえるといいな。
11月は、勤労感謝の日にちなんで、ビジネスマン・タナカさん。
天井裏を掃除しようと思って、
久しぶりに、天井扉を開けてみたのだ。
すると、アシカだかオットセイだか定かではないけれど、
とにかくあの系統の海洋生物が、べチンッ!!!と、
ものすごい音を立てて落下してきたのである。
ちょうど扉の上にいた時に、開けてしまったのだろう。
大丈夫だろうか?
家の天井裏に、こんな海洋生物を住まわせた覚えはないし、
だから、私の責任というのはちょっと言い過ぎだけど、
骨折などしていた場合、知らんぷりをするわけにもいかない。
手当ては?病院は?移動手段は?
どうしたらいいのだろう?こんな特殊な生き物を。
困惑していると、そのアシカだかオットセイだかは、
でっぷりした体をモゴモゴと動かして半身を起こし、
「いてぇ、いてぇ、おぉいてぇ!」
と、鼻に皺を寄せて、江戸っ子のオッサンみたいな口調で
言ったのである。
短い前脚で脇腹をぺチンぺチンと叩きながら。
随分と痛そうではあるけれど、
どうやら骨折はしていないらしい。
あーよかった。
と、思ったところで、目が覚めた。
おかしな夢だった。
結局あの生き物は、アシカだったのだろうか?
オットセイだったのだろうか?
目覚める前に、本人に聞いてみればよかった。
今度会う事があったら、聞きそびれないようにしよう。
すっかり暗くなった、夕暮れ時の商店街の一角で、
バナナを食べながら歩く、スタジャン・キャップの
中年男性とすれ違う。
冬の寒い夕暮れ時に、屋外で、移動しながらバナナを、
それも未加工のバナナを食べている。
付近では、肉まんやあんまん、
もう少し間口を広げるなら、おでんなど、
冬の屋外に適した加工食品が、手軽に入手出来るというのに、だ。
全ての点で、不自然だった。
その不自然さといったら、彼が本当はお猿である、
という突飛な考えの方が余程自然なくらい、不自然だった。
狐や狸が人間に化ける、なんて話は沢山あるのだから、
お猿だって、化けるかもしれない。
お猿の場合は、積極的に化ける訳ではないかもしれないけれど、
それ相応の理由があれば、化ける事だってあるかもしれない。
それ相応の理由とは、例えば生活圏の森が山火事などの天災、
または人間の開発により生活出来なくなった、とか、
敵対する猿グループとの長年の闘争の末土地を追われた、
などが考えられるけれど、いずれにしても、
彼らは何らかの理由で住処を失って、
やむを得ず人間に化けて、人間の土地に紛れ込むしかなかった、
というのが、妥当な線だろう。
その際、恐らく目立つ事を避けるために、
群れは散り散りになったと考えられるけれど、
忘れてはならないのは、お猿の仲間意識についてである。
別れ際、お猿たちは再会を約束し、
いつの日か新天地で、群れの再結成を誓ったに違いないのだ。
賢いお猿たちは、人間に化けていても、
お互いを見つけられるように、お猿の印を決めただろう。
それが、バナナである。
彼らは、バナナの食べ歩きを、お猿の印にしたのではないだろうか?
でも、それだけでは不用心だ。
夏の人間たちには、バーベキューという浮かれた風習があり、
浮かれた人間たちが、バナナを食べ歩き、
それを仲間と勘違いして、酷い目に遭う危険性もあるからだ。
お猿たちは万全を期して、自分たちの印を、
“冬のバナナの食べ歩き”に限定したのではないだろうか?
そう考えるのが、何より自然だ。
私は今日まで、冬のバナナの食べ歩きを見た事はないから、
スタジャン・キャップが仲間と再会し、
群を再結成するのは、簡単な事ではないだろう。
彼のとてつもない孤独を想像して、少し気が遠くなった。
この仮説が正しかったら、の話だ。
先月、新潟のラジオで読み聞かせをしていただいた、
「わたしドーナツこ」の録音CDを送っていただく。
私が住んでいるところでは聴けなかったので、
とても嬉しい。
読んで下さった方や、担当の方のお気遣いに感謝。
制作中の絵本は、残り3枚となった。
劇的な場面だけど、過剰にならないように、
でも地味にもならないように、
明るく柔らかく淡々と描けたらいいなぁ、と思う。
がんばろう。
外出しようと外に出たら、
住んでいる集合住宅の入り口付近が、くさいのだ。
何事かと思って、嗅覚を研ぎ澄ませてみると、
猫の糞尿の匂いとわかる。
それで、すぐにピンと来た。
ウシだ。
ウシが、昨日の魚肉ソーセージの件を根に持って、
仕返しに来たのに、違いないのである。
ちょっと悪かったかもしれない、とは思っていたけれど、
ここまで根に持っていたとは。
すっとんきょうな顔をしているけれど、
なかなかに執念深いやつである。
「執念深いと、もてないよ」と、
今度会ったら言ってやろうと思ったけれど、
ウシは、3日も経てば、忘れてしまうのかもしれない。
なんだか今度は、私が一抜けされた気分だ。
だから、おあいこって事なのかもしれない。
スーパーに行った帰り道、ウシに会う。
“ウシ”は、近所の野良猫だ。
牛柄なので、ウシと呼んでいる。
ウシは、時々私が住んでいる集合住宅の敷地内を、
すっとんきょうな顔でウロついたり、
一階の住人が留守にしている昼の間、
ちゃっかりベランダに入り込んでは、昼寝をしたりしている。
出会ってから数年になるけれど、近付くと、相変わらず逃げて行く。
私たちの距離は、出会った時から変わらない、5mくらいのままだ。
ところがウシが、なぜか今日は逃げないのである。
5mくらい先、片方の前脚を上げた中途半端な姿勢のまま、
すっとんきょうな顔でこちらを見つめて、じっと動かない。
どうやらウシは、私が持っているスーパーのビニール袋に
惹きつけられているようなのだ。
“その中に、わたしのための、魚肉ソーセージが、
入っているのですか?”
というような顔つきで、こちらを伺っている。
私はなんだか面白くなってきて、
(さぁ、どうかな?気になるのなら、確かめにおいで)
というような顔つきで、ビニール袋をガサガサと揺らしてみた。
ウシは、相変わらず片脚をあげたまま、
行くか行くまいかと迷っているのだろう。
鳩のように体を前後に動かしはじめた。
“そのビニール袋から、魚肉ソーセージを取り出して、
見せてくれたなら、わたしは、今すぐ、
そちらに、向かうつもりでございますけどね”
ビニール袋の中は、実のところ缶ビール数本のみだったけれど、
距離を縮めるためには、時には嘘も必要だ。
私はいかにも魚肉ソーセージが入っているような素振りで、
ビニール袋を再び揺らした。
(虎穴に入らずんば虎子を得ず、だよ)
ウシは、魚肉ソーセージの味を思い起こして、
いよいよ興奮してきた様子だ。
鳩の動きが増してきたので、よくわかる。
“あなたは、わたしを、だまくらかそうと、
してるんじゃ、ないでしょうね?
証拠を見せて、下さいよ”
そんな駆け引きが、しばらく続いたけれど、
どうにも進展がなさそうなので、
ウシには悪いけれど、一抜けして帰る事にした。
暇というわけではなかったし、
正直、駆け引きに飽きてしまったのだ。
あのあとウシは、どうしただろうか?
私たちの距離は、結局今日も変わらないままだ。
わけあって、ジャガイモの収穫時期について、
気になりはじめる。
春だったような気もするし、秋だったような気もする。
調べてみる。
ジャガイモは、日本のどこかで、いつも旬だという事を知る。
冬に南で収穫が始まり、次第に北上し、
秋には北に達するという。
北での収穫が終わった頃、また南での収穫が始まるそうだ。
産地ごとの収穫時期を把握していれば、
いつでも旬のイモを食べられるという事になる。
イモ通の間では、桜前線ならぬ、
「ジャガイモ前線」なんていう言葉もあるようだ。
知らなかった。
日本のどこかで、いつもイモができているなんて。
年中、イモができている。
こうしている今も、イモが。
ボコボコ、ゴロゴロと、土の中ではイモが。
すごいと思った。
イモの底しれぬ力に、ドキドキした。
もっとイモを食べようと思った。
食べなければならない、と思った。
遊歩道を歩いていると、奇妙な動きをしているおじさんがいる。
ちょこまかと小走りに数メートル進んだかと思うと、
一旦止まってお辞儀のように上半身を前方に傾ける、
という動作を1セットとして、それをくり返しているのである。
何をしているのかと見ていると、
どうやら「ほっこり写真」を撮っているようなのだ。
「ほっこり写真」とは、
呼び方が分からないので、今思いつきで付けたのだけど、
ほっこり系の趣向を持った女の子が、
SNSのプロフィール写真などで使用している、
地面と自分の靴を自撮りした写真の事である。
私は撮った事が無いので、推測に過ぎないけれど、
あれは、芝生だとか花だとか落ち葉だとか、
そういった自然のものに調和する趣向の、
可愛らしい靴や靴下である事がポイントとなってくるのだろうし、
それゆえに、ほっこり系の女の子独特の文化になっている、
というのは、そんなにズレていない認識だと思うのだけど。
驚いた。
スーツ姿のおじさんが、スーツ姿の足元を、
落ち葉と組み合わせて自撮りしている。
夢中になって、冬の晴れた昼下がりに。
ちょこまかと移動しているのは、
いい感じに落ち葉が落ちている箇所を探しての事だろう。
静かな遊歩道に、カシャ、カシャ、というシャッター音が
何度も響いた。
なかなか納得のいく写真が撮れないようだ。
おじさんが、お気に入りの1枚を撮れるといいな、
と思いながら、それを見届けずに帰った。
冷たく乾いた空気の中に、自由の気配が満ちていた。