100年 2016.04.21

sakura

今年も桜の季節がやってきて、あっという間に終わってしまった。

ちょうど忙しい時期が重なって、お花見には行けなかった。

残念だなぁ、とは思うけれど、それほど切実には思わない。

家の近所に桜の樹があって、日常の中で見られるから、

というのもあるだろうし、

1年待てば、また見られる、というのもあると思う。

桜は、1年に1度咲いてくれるのだ。

 

でも、もしも桜が、例えば10年に1度しか咲かない花だったら、

もっと切実に見たいと思うだろう。

ましてや、30年に1度、50年に1度だったりしたら、

見られなくて残念だ、なんて穏やかな事は言っていられない。

運悪く見られなかった人は、絶望してふさぎ込んだり、

激怒して暴れたりなどするだろう。大変だ。

 

さらに、100年に1度だったりしたら、どうだろう?

人によっては、1度もその花を見ることなく、死んでいくのだ。

そうなると、残念に思うのか、もはや全くの無関心になるのか、

どちらか分からない。人によるだろう。

 

もしも自分が、

ちょうどその花を見られない時代に生まれてしまって、

それなのに、自分の家にその花の樹があったとしたら、

私はその花の樹の世話をする事をやめてしまうだろうか?

多分、やめない、というより、やめられないと思う。

自分が見る事も出来ない花の樹の世話をする面倒くささより、

どうやら大切にされてきたらしい花の樹の世話を

放り投げる罪悪感の方が、きっと辛い。

時々不満を言いながらも、その花の樹の世話をし続けるだろう。

何かの間違いがあって、

生きている間にその花が咲いたりなんてすることも

あるかもしれない…と、どこかで少し期待しながら。

でもやっぱり、そんなわけないな…と諦めながら。

その2つの思いを繰り返して世話を続けるだろう。

大変だ。考えただけでも疲れてくるじゃないか。

 

桜の花が、1年に1度、ちゃんと咲いてくれる花でよかった。

律儀な花だ。