お猿の印 2014.12.19
すっかり暗くなった、夕暮れ時の商店街の一角で、 バナナを食べながら歩く、スタジャン・キャップの 中年男性とすれ違う。
冬の寒い夕暮れ時に、屋外で、移動しながらバナナを、 それも未加工のバナナを食べている。 付近では、肉まんやあんまん、 もう少し間口を広げるなら、おでんなど、 冬の屋外に適した加工食品が、手軽に入手出来るというのに、だ。
全ての点で、不自然だった。 その不自然さといったら、彼が本当はお猿である、 という突飛な考えの方が余程自然なくらい、不自然だった。
狐や狸が人間に化ける、なんて話は沢山あるのだから、 お猿だって、化けるかもしれない。 お猿の場合は、積極的に化ける訳ではないかもしれないけれど、 それ相応の理由があれば、化ける事だってあるかもしれない。
それ相応の理由とは、例えば生活圏の森が山火事などの天災、 または人間の開発により生活出来なくなった、とか、 敵対する猿グループとの長年の闘争の末土地を追われた、 などが考えられるけれど、いずれにしても、 彼らは何らかの理由で住処を失って、 やむを得ず人間に化けて、人間の土地に紛れ込むしかなかった、 というのが、妥当な線だろう。
その際、恐らく目立つ事を避けるために、 群れは散り散りになったと考えられるけれど、 忘れてはならないのは、お猿の仲間意識についてである。 別れ際、お猿たちは再会を約束し、 いつの日か新天地で、群れの再結成を誓ったに違いないのだ。
賢いお猿たちは、人間に化けていても、 お互いを見つけられるように、お猿の印を決めただろう。 それが、バナナである。 彼らは、バナナの食べ歩きを、お猿の印にしたのではないだろうか?
でも、それだけでは不用心だ。 夏の人間たちには、バーベキューという浮かれた風習があり、 浮かれた人間たちが、バナナを食べ歩き、 それを仲間と勘違いして、酷い目に遭う危険性もあるからだ。 お猿たちは万全を期して、自分たちの印を、 “冬のバナナの食べ歩き”に限定したのではないだろうか? そう考えるのが、何より自然だ。
私は今日まで、冬のバナナの食べ歩きを見た事はないから、 スタジャン・キャップが仲間と再会し、 群を再結成するのは、簡単な事ではないだろう。 彼のとてつもない孤独を想像して、少し気が遠くなった。
この仮説が正しかったら、の話だ。 |